茶道はいつ「ちゃどう」になったのか
2022/06/19
お茶を飲むのに、流派なんてものがいくつもあるのは日本だけだろう。
これを「さどう」と呼ぶものと思っていたのは私だけではないだろう。
ところが、最近これを「ちゃどう」と言っている。
お茶の道だから、「ちゃ道」には間違いないし、名前が違ったからと言って本質は変わるまい。
ただ、500年もの歴史を持つものである。
こう簡単に呼び名まで変わっていいものなのか。
茶道には表千家、裏千家、何とか千家といったようにたくさんの流派が今でも存在する。
そのどこかが文句を言ったかとも思う。
あるいは、「さどう」というと左道につながるとして、嫌われたか。
テレビ局が変えた理由はすでに説明されていて、みんなが知っているものとしてそういっているのかもしれない。
そのため、今更いちいち説明しないのだろう。
それで、改めて茶道である。
抹茶を水に溶かして飲むものであることはだれでも知っている。
知っているが、ほとんどの人はこんなものを飲んだことはないのではないか。
なぜなら、飲むためには面倒な「作法」が必要だからである。
では、この「面倒な作法」がなければ飲むのか飲まないのか。
それはつまり、抹茶自体がおいしいのかまずいのかということにつながってこよう。
抹茶自体がまずいのであれば、そんなものを飲まされた豊臣大名はいい面の皮である。
一方、これが少しでもおいしいのであれば、もう少し普及していていいはずである。
抹茶がおいしいにもかかわらず、普通の人が飲まないのであれば、それは何か。
それはつまり、「茶道」が悪いということであろう。
なにかを飲もうと思ったときに、お作法から学ばなければならないならどうなるか。
どこかのお教室に入門し、その日から相当な出費を覚悟しなければならい。
ピアノ教室のように月謝だけ払うだけでは済まないのである。
「茶道」関係向けの抹茶出荷量は、おそらく1割もないだろう。
ほとんどが加工用ではないかと推察する。
私のような門外漢が飲むのなら、もう少しその比率は変わるだろう。
抹茶生産者からすれば、茶道なんてものはなくなってくれと思っているのではないだろうか。